百十一話/憧憬に焼かれる ページ21
目の前の男の名前にAは聞き覚えがあった。
もしこの男が本当にAの知る人物であればーー、
｢羊のお……羊の、中原中也さんですか？｣
いつの間にか殺気の霧散した男にAは問い掛ける。確か彼は、羊の王と呼ばれるのを嫌っていたという話があった。危なかった。
｢……あぁ、良く知ってるな。貧民街の出か？｣
微かに瞠目したあと、中也は目を細めた。話の初っ端から地雷を踏み抜くのはどうやら
｢ーーーー｣
というか、冗談抜きでAの心臓は今、爆発しそうだった。
ーー中也は、Aの憧れだった。
羊の中原中也を実際に見たことは無いが、貧民街は情報が出回ることが多い。そういう街だ。
だから、中也の話も良く出回っていた。縄張りを侵した者には容赦しない互助会『羊』、中原中也はそのグループのリーダーで、『羊の王』と呼ばれて恐れられていること。
ーー中原中也が『羊』を裏切り、ポートマフィアに入った。
それも、良く聞く噂の一つである。真偽のほどは判らないが、人伝で中也の人柄等を聞いていたAには中也がそんなことをするなんて信じられなかった。
｢ーーーー｣
だから、何時か会えたら聞こうくらいに思っていたのが本当に会えるとは。
目の前の男が自分の知るそれだというだけで、顔が熱くなっていく気がした。
｢……おい、大丈夫か此奴｣
黙り込む目の前の少女の顔を中也は覗き込んだ。顔も何だか赤い気がするし、口を金魚のように動かしている。
焦点が合っていないどこか潤んだ紫紺の瞳に、中也の肌が泡立った。
｢ーーだから厭だったのだよ。ほら、中也お嬢様はどっか行った｣
｢誰がお嬢様だ｣
虫を払う仕草で中也を
｢Aちゃん、行こう｣
｢……ぁ、済みません。判りました｣
軽く目の前で手を叩かれ、Aの意識が此方へ戻ってくる。
そうして、目が合ったAに太宰は薄く笑った。怖い。不気味だ。
それから太宰はAから視線を逸らし、｢行こうか｣とゆっくり歩き出す。Aはその太宰の背中を慌てて追い掛けた。
｢……あんまり虐めてやるなよ｣
｢ええ？酷いなぁ、誰に云ってるの？｣
｢手前なら尚更なんだよ……少しは反省しろ、糞太宰｣
｢聞こえなーい｣
まだ完全に意識が回帰していないAにそんな二人の会話は届かなかった。
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 113人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：女中 | 作成日時：2022年6月11日 11時
