陰翳の果実 最終楽章

温かな家路【紫】 ページ18

「…なあ、なんでそいつを忘れんことが俺に会わんゆうことになるん？」



…耳元で


力強い声色で


彼は私に、そう尋ねたーー…



「…だって、」



…私は焦って、駄々っ子をあやすようなその腕の中で戸惑い足掻きながら反射的に言葉を探す


頬に髭がざらりと擦れる

右膝をベンチについて


左脚が彼の脚と脚の間で不自然に曲がるーー…




“遠き山に日は落ちて”


“星は空を散りばめぬ”



「…だめなんです、あなたの前だとこうしてついなんでも話してしまうし」


「うん、ほんで？」



「話すと…楽になっちゃうから、それは…、裏切りでしょう」


…離れようと


この腕を離して欲しいと早口で言葉を必死に紡いで




“今日の業をなし終えて”


“心軽く安らえば”


なんとか、鳴り響くチャイムに負けない声で…




「気がついたら公園に向かっていることとか…、っ、家にいてもあなたのことを考える時間が増えて」


「ははは」


四肢をばたつかせる私に取り合うこともなく

軽くいなしながら彼がまた笑うから私はますます焦り



「…私は、」




“風は涼しこの夕べ”


“いざや楽しきまどいせん”




「…私はもう人を好きになりたくない…！」


「ーー…お前はもう俺を好きやろ」




“まどいせん”



ーーー…




「お前はもう俺を好きやろ」


「ーー…」



「…違うか？」







ーー…温かかった



それは、苦しいほどに穏やかで温かくて



…早く


ここから逃げなければと思うのに





「…なあ、ええんやと思うで、それで」


「ーー…」



「…忘れても、進んでもええんや、人は」


「……」



…彼はそう言って、その温かい胸から私の身体をそっと離した



真っ直ぐな瞳で私の目を覗き込みながら


右手で、やさしく頭を撫でて



その手を そのまま私の頬にそっと添えた




「…俺とおったら楽しいと思うで？」



「……」



「…どこへも行かんし、お前の人生丸ごと引き受けたるから」



「……」




「…返事は？」



「…うん」



…彼はまた少しはにかんだように笑って



それから


すぐそこにあった唇がそっと触れた



それは永遠のように安らかな温もりで



静けさを取り戻した公園とは裏腹に


私の頭の中ではあの音楽が流れ続けていた




“闇に燃えし篝火は”

“炎いまは鎮まりぬ”


“眠れ安くいこえよと”

“誘うごとく消えゆけば”



“安き御手に守られて”

“いざや楽しき夢を見ん”




“夢を見ん”

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