地上32階の恋【黒】

世界にひとりの目撃者【ヒヨリ】 ページ19

「…すみませんねお引き留めして、しかもプライベートなのに」


「いや…ははは、大丈夫ですよ」


「あ、うちの奥さん横山さんの隠れファンだから紹介してやったほうがよかったかな…」


「や…すみません、勘弁してください」


「はは、ですよね、申し訳ない！ もうすれ違ってもお声がけしませんから、大きいマンションですし」


…推察、しなくても

どうやら、二人は仕事相手のようで


その上で居住空間が同じだというのは、それなりに気まずいのは当然で

互いに線引きをするのがマナーなのだと、それぞれが心得ているようだった



「…では、お先に横山さんどうぞ」


「あ…じゃあ、すみません、また収録でよろしくお願いします」


…彼は律儀に私にも一礼をしてから、エレベーターへと向かう


…見るともう彼女の姿はそこにはなかった。



「ーー…」


目の前にいるナカジマ様は、腕時計を気にしながら彼の乗ったエレベーターが先に上がるのをきちんと見届けて、


それから、やっぱり私にも一礼をして、その後を追った。




“ヒヨリちゃん”



あの甘い響きは、今の数分のやり取りで跡形もなく消え去ってしまったようだった


フロアには、ただ喧騒の後の静けさだけが重く残されていた




“ーー…A？”



あの時、後ろ姿の彼がたしかにそう呟いたのを


彼を見つめる彼女の…時が止まったように固まった表情を



見ていたのは、世界で私だけだった。

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