抱きしめてあげる

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「あ、あのお姉さん！」
立ち去りかけていた彼女を呼び止めて、でもなんと言ったらいいかわからずにほとんど苦し紛れで「さっきの神保町のライブいましたよね？！俺、ナイチンゲールダンスのヤスっていいます！」
と街中でどでかい声で自己紹介をするはめになった。
「え、はい」
彼女は彼女でパニックであった。
そこそこ背の高い人にぶつかったと思ったらまさかの推しで、へんな承認欲求が鎌首をもたげないうちに立ち去ろうとすたこらと逃げる姿勢をとったところ急に推しに街中でバカでかい声で自己紹介されたのである。誰でもパニックになるであろう。なって然るべきとまで言える。が、一応仮にも社会人として生きてきているのでそれを表に出して騒ぐこともできずにシンプルに返事をするという行動が今の彼女のキャパの精一杯であった。
「連絡先ください！！」
「は？」
言ってしまって双方『やってしまった』という顔をした。
意味は違えど『やってしまった』ことに変わりはない。
「えっ…と、人違いじゃないですか？よく見てくださいね？ほんとに私であってますか？違いますよね？？」
最早違ってくれと願っている自分がいるのも恐ろしいなと彼女はぼんやりどこか他人事のように思う。
しかしやはり彼女にとって推しは推し。眺めるもの。近くにゆくべきものではなく。だから、お互いに大人だしきっとわたしの推しは引き下がってくれるだろうと思っていた、ところが。
「いや、あってます。前から2列目、入口側から2番目の席に座ってらっしゃいましたよね？」
そうである。
運動部は引き下がらない。食い下がる生き物である。こればかりはヤスが悪いのか若干怪しいところであるが、彼女はひとりで面食らった。
なんで席まで把握されているのか。ドッキリか何かだろうか、神保町でドッキリ？いや、ないな、と思う。やるなら無限大かルミネだろう。自分がプロデューサーだったら絶対に神保町でやろうとは思わない、多分。
結局あーだこーだ押し問答をして、根負けした彼女は自分の名前と電話番号を書いた紙切れを渡した。自分の推しに。かなり意味がわからないと思いつつ。
その場で交換しなかったのは猶予が欲しかったから。それにつきる。
このときのふたりの辞書にはまだ、「一目惚れ」という4文字はない。新しく改訂されるのも時間の問題ではあるが。

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