四話 ページ5
名前を呼ばれて、どくん、と心臓が跳ねた。彼には見覚えがある。同じクラスの
「えーっと」
ただ、いきなり下の名前を呼ぶのもどうかと思って、名字を思い出そうとするもなかなか出てこない。
「……
目をさまよわせる伶香に、静霞が助け船を出した。
クラス替えをしてまだ数週間、今年初めて同じクラスになった伶香と彼は、高校に入ってからまだ一度も会話をしたことがなかった、はずだ。
年齢に関わらず敬語を使ってしゃべる彼が呼んだ伶香の名字は、やけにはっきりしていた。伶香と違って、彼はろくに話したことのないクラスメイトの名前と顔も既に把握しているようだ。
「そうだ、一色くん……何?」
彼女の腕は依然拘束されたままである。静霞は全身まんべんなく雨を浴びた伶香を上から下まで眺めて、困った顔をするだけだった。
用がないなら、と伶香は腕を引くが、静霞の力が緩む兆しは一向に見えない。
濡れたことで伶香の体が冷えているからか、静霞の手がずいぶん熱いように感じられた。
「この雨の中、濡れて帰るつもりですか?」
引き留められたほんの少しの間に、また雨足が強まっていた。
「うん、傘ないし……バス停からここまで歩いてきたよ」
それを聞いた静霞が、信じられない、と眉を寄せる。顔の綺麗な人にそんな表情を向けられると傷つくのだと、伶香はひとつ学んだ。ふぅ、とため息をついた静霞が、さらに伶香の腕を引く。
「送っていきます、遠慮しても無駄ですよ」
いや、いいよ、と返す前に釘を刺された。
「……ありがとう」
観念すると、腕が解放された。まるで逃げないか疑っているようなゆっくりとした動作で。走って逃げてやろうかという気持ちが一瞬頭をもたげたが、踏みとどまった。
「ちょっと待ってくださいね。持っててもらえますか」
すい、と傘が差しだされて、反射的に受け取る。何をするのかと思えば、静霞は自らのバッグからきちんと畳まれたジャージを引っ張り出した。
「ほら、羽織ってください」
「いや、濡れちゃうし」
持たされたばかりの傘と引き換えに、今度はジャージを渡される。閉められていたチャックを開けて広げる、ご丁寧な気遣いつきだった。
男子のジャージ……と身構えた伶香は当然のように手のひらを静霞に向けて拒否の意を示す。濡らしてしまうというのももちろんのこと、これを着るのは恥ずかしい以外の何物でもない。
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作者名:翡翠月 | 作者ホームページ:https://mobile.twitter.com/hisuigetsu
作成日時:2022年3月4日 12時