グラスの氷はもう溶けた ページ8
六人分のグラスをトレンチに乗せて、私は既にグラスに目を奪われている彼らの下へと歩み寄った。磨き上げられたグラスがきらりと光って、希望に満ちた彼らの瞳により一層輝きを増している。
「失礼致します。」
余程空腹だったのか、早くも空になった大皿を一先ず空席のテーブルへどかしてから、六枚のコースターを並べ始めた。その様子を彼らは黙って見つめる中、ピアノミュージックと少し離れたところにいるカップルの談笑する声が控えめに耳に届く。
別にそんな緊張するほどのことでもないのに。そんなことにすら尊さを感じてしまう私は、やっぱり彼らの限界オタクという言葉が良く似合ってしまうのだ。
「これ、素敵ですね。」
不思議な緊張感を打ち破るように声を発したのは、私が限界オタクになった一番の原因である、山本さんだった。店のロゴが書かれたモノトーンのコースターを手に取り、私に向けて微笑んでいる。画面越しで見るよりも屈託がなくて、眩しくて無邪気な笑顔を、私だけに向けている。
「ありがとう、ございます。」
急いで口に出したその言葉は、焦りと緊張で少しだけ震えてしまった。
やっぱり推しは最高だな。先に待つ未来をそんな感情で終わらせることが出来れば、ただ幸せなだけだったのに。
「こちら、ベリーニです。」
湧き出て来た新しい感情に気付かないふりをして、私は音を立てずにグラスを置いていった。居酒屋では滅多にメニューとして置かれることのない、このカクテル。この店に来てこれを頼む人だって殆どいないのだから、きっと彼らは誰もこの正体を知らないだろう。
私だって、お勧めをと注文を受けてこれを出すことは滅多にない。三年前、五十年目の結婚記念日だからお祝いをしたいと、笑顔で来店した老夫婦に出したのが最後だっけ。私からの祝福の意と、私自身の喜びの気持ちを織り交ぜて提供したことをふと思い返す。
「ベリー…?」
案の定、須貝さんは不思議そうな表情をして私の言葉を復唱し、こうちゃんの頭の上にははてなマークが浮かんでいる。動画で見る姿と一切ギャップがなくて、本当に喜怒哀楽が豊かな人たちだな。
「どうぞ、味わってみて下さい。」
役目を果たしたトレンチを片手に抱え、私はグラスを手に取るよう促した。彼らは言われるがまま少しぎこちない手つきで、ステムと呼ばれるカップの下に付く細い部分を握りコースターからそれを慎重に離した。毒味じゃないんだから、もっと軽率な気持ちで飲んで良いのに。
300人がお気に入り
感想を書こう!(携帯番号など、個人情報等の書き込みを行った場合は法律により処罰の対象になります)
萌衣(プロフ) - akiakiさん» 初めまして、コメントありがとうございます…!ニコラシカは「決意」「覚悟を決めて」というカクテル言葉を持っており、その後の展開を示唆するような存在になっていました。そう言って頂けてとても嬉しいです(;;)良ければ続編もよろしくお願い致します…! (2020年12月4日 7時) (レス) id: ba6d0efe33 (このIDを非表示/違反報告)
akiaki(プロフ) - 少し遅れましたが、心打たれたので感想を書かせていただきますね。“決意”ですか。良いですねぇ (2020年12月3日 23時) (レス) id: 9ea9a75c9d (このIDを非表示/違反報告)
萌衣(プロフ) - みるくてぃーさん» 初めまして、コメントありがとうございます…!実は主人公が選ぶカクテルは、全て思いや感情とリンクするように描いていました。それに気付いて下さって、更に調べて下さるなんて、嬉しい限りです(;;)長くなりますが、良ければ完結までよろしくお願い致します…! (2020年11月14日 8時) (レス) id: ba6d0efe33 (このIDを非表示/違反報告)
みるくてぃー(プロフ) - コメント失礼します!カクテル言葉、存在を知ってはいましたが、ひとつずつの意味を知るのは初めてで調べることも楽しかったです(*^^*)また更新楽しみにしています! (2020年11月13日 22時) (レス) id: c5c88d3947 (このIDを非表示/違反報告)
萌衣(プロフ) - たーさん» 初めまして、コメントありがとうございます…!この作品が毎日の楽しみの一つになれているなんて、とっても嬉しいです(;;)素敵なお言葉、本当にありがとうございます。長くなりますが、良ければ完結まで見守って頂けたら嬉しいです…! (2020年11月10日 23時) (レス) id: cd279427a1 (このIDを非表示/違反報告)
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:萌衣 | 作者ホームページ:
作成日時:2020年10月21日 16時