34 JH side ページ34
.
Aと過ごす日々は何よりも心地よかった。
だが、昼間一人で外出している時、突然現れた黒塗りの車がその時間を切り裂いた。後部座席から降りてきたのは、長年、見知った顔、母親の秘書だった。
「お坊ちゃま、奥様がお呼びです。乗っていただけますか?」
俺は無視して歩き去ろうとしたが、秘書は食い下がる。
「ここで時間を取らせるのは得策ではありません。どうかお乗りください。」
広い廊下の床は、きしむ音一つしないほど完璧に磨き上げられている。
ああ、戻りたくなかった。
いつだってこの家は、どこか息が詰まる。高価な絨毯、飾られた美術品の数々、どれもが完璧で冷たく、ただ「体裁」を象徴するものだ。
「こちらです。」
先を歩く秘書が一つの扉の前で立ち止まり、静かに扉を開ける。
その瞬間、胸の中に広がる嫌悪感と緊張。
豪奢な応接室の中央に、母親が座っていた。変わらない整った姿勢、口元の微笑み———それが、ただの仮面だということを俺は知っている。
「久しぶりね。」
「……なんの用?」
挨拶を無視し、そう言い放つと、ほんの少し眉を寄せた。
「あなた、まだそんな口の利き方をするのね。」
「用件がないなら帰る。」
背を向けようとした瞬間、彼女の言葉が飛んできた。
「遊びはもう終わりにしなさい。」
その一言で足が止まる。
「散々好きにさせてあげたでしょう?それももう限界よ。もう30歳になるんだから、いい加減身を固めなさい。」
振り返ると、彼女の前に資料が置かれているのが見えた。
「これが次の候補。家柄も申し分ないわ。ちゃんと話をしてきなさい。」
冷静で静かな声。でもその裏に、拒絶を許さない圧力がある。
「…俺にそんなつもりはない。」
「何を言っているの?」
「俺にはもう、大事な人がいる。」
言い放った瞬間、母の表情がわずかに揺れた。そして、次の瞬間には、冷たく張り詰めた空気を纏う目で俺を見据えてくる。
「あなたが選べる立場にいるとでも?そんな自由、与えた覚えはないわ。」
「自由なんて、そもそもここにいた頃からなかっただろ。」
その言葉を皮肉交じりに返すと、静かに立ち上がり、俺に近づいてきた。
「あなた何もわかっていないのね。あなたが持っている名前、環境、それがどれだけの価値を持っているか———」
「その名前も環境も、俺には関係ない。」
遮るように言い捨てて俺はその場を去った。胸の中には苛立ちと不安、そしてほんの僅かな、無力感が渦巻いていた。

551人がお気に入り

作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:黒猫アイランド | 作成日時:2025年1月15日 12時