summer ページ31
.
1学期最後の日、終業式に智は居なかった。
登校中になにか面白いものでも見つけたのか、単に気が乗らなかったのか。
もしかしたら屋上や中庭で遊んでいるのかもしれないと考えを巡らせて、俺は、だいたいの生徒がそうするように 退屈な終業式にぼーっと出席した。
下校時刻になっても、智が姿を現さなかったことに、とくに驚きはしなかったけど
一緒に帰ることができないのが、少し残念だった。
夏休み、彼がどこで何をして過ごすのか…俺が考えたところで、分かるはずもなかった。
.
そして、夏休みになった。
夏休みには、楽器制作会社が主催する大きなコンクールがある。
だからよりいっそう、ピアノの前から離れられなくなる。
.
「…あー、クソっ」
シベリウスの練習曲。
1音も逃さずに弾こうと思うのに、何回やっても小指に体重をかけきれなくて落としてしまう。
思うような音色が出ない。
防音壁のこの部屋には、そとでワンワン鳴いているセミの声も入ってこなければ、
1日中止まないピアノの音が近所に漏れることもない。
コンクールは刻一刻と迫って来ていて、目の前に山積みの課題に、吐き気を覚えるほど焦っていた。
焦っていた。
「和也ー、夜ご飯できてるわよー?」
部屋の扉の向こうで母の呼ぶ声がした。
ポー、と言う音が断続的に聞こえて、電子メトロノームもスマホも鳴ってないので、やっと耳鳴りだと分かる。
「…いらない…」
弾くのを止めればガンガンと襲ってくる頭痛も、鍵盤に再び指をおいてねじ伏せる。
ふー…と長く息を吐いて、最初のフレーズに心を集中した。
川が流れる森のような旋律。
目を閉じて緑をイメージする。大丈夫。冒頭は綺麗に弾ける。
同じメロディが何度も繰り返され、それぞれに表情をつけていく。
迫り来るようなフォルテ。ゆるみではなく丸みのある音色。
そして、緊張感のある甘いピアニッシモ…
きゅっと息をつめたのに、薬指だけがピアニッシモから飛び出た。
視界がぐわっと燃えるような苛立ちを覚え、掌全体を使って鍵盤を叩きつける。
言葉にできないような不快な音の塊が 耳を襲った。
「…ッ…、ふ……」
上手く息が吸えず、嫌な汗が頬を伝った。
弾けない…
昨日は弾けたはずのフレーズが弾けない
おととい落とさなかった音を落とす
きちんと調律されてるはずの自分のグランドピアノの音色が、昼休みに智に聞かせた、古い音楽室のピアノのそれより劣っていた。
.
185人がお気に入り
この作品を見ている人にオススメ
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:きんにく | 作成日時:2020年4月19日 0時