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その時のあの方の様子は、忘れようにも忘れられません。突然泣き出した私にすっかり狼狽されたあの方は、精悍なお顔を困った風にして、そうして手ぬぐいで私の涙をひかえめに拭いなさります。とってもやさしい手つきでございました。どうして泣くのかと、ひどく困惑した声音で訊ねられましたから、私は正直に、ひとりぽっちがこわいのだと答えました。心細くて仕方がないのだと、村へ戻れるのかも不安で仕方ないのだと言いました。恥も何も、気にする余裕がまったくなかったものですから。ですけれど私の答えを聞いたあの方は見るからにほっと息をおつきになって、そんなことか、とおっしゃいます。これには私がむっといたしました。そんなこと、で済ませられるなら苦労はありません。一言物申してみせようと顔を上げましたら、あの方はとびきりやわらかに笑っておりました。そして、ちょうど今宵の宿のためにこの先の村に向かおうとしていた。これはちょうどいい、一宿一飯の恩の先払いとさせてもらおう。と。そうおっしゃいました。
そうして私はあの方と共に山を下りました。道中出くわした丘々人は、私が怯える暇もなくあの方に斬り捨てられておりました。神の目の力で刀にほとばしる紫電が煌めく様が、大変うつくしゅうございました。
あの方との出会いで私が感じたのは、たしかに幸福だったのでございます。村に戻ったあと、村人みんなからこっぴどく叱られても、床につく弟にどれほど文句をつけられても、あの方との出会いは、私にとってたしかに「さいわい」でございました。
この胸を掻き乱される、そんな恋でございました。
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作者名：鳴草 | 作成日時：2022年5月6日 1時
