一、いかづちのようなひと ページ1
ただ一夏の恋でありました。
未だ梅雨が明けきらない頃のことにございます。その日は雨こそ降ってはおりませんでしたが、分厚い鼠色の空が広がり、さながら恋敗れた乙女の吐息のように、じっとりと熱っぽい空気が肌にまとわりつく、そんなじめじめとした日でございました。日頃でしたらキイカラカラと音をさせて糸を紡ぎ、トンカラカラと音をさせて機織りに精を出しますところを、私はそんな日に限って弟の風邪のために、山へ薬草を採りに向かったのでございます。夏風邪というものは長引いてしまっていけません。熱ばかりがこもって苦しそうにするあの子の姿を、私はとても見ていられなかったのです。
薬師もいない、城下からも半刻はかかるほど辺鄙な場所にある田舎の村ですが、幸い村の横に聳える山には恵みがたくさんございました。しかし獣も、そして魔物も多くいる場所でございました。女子供だけで入ってはいけないと言われる所以にございます。私はそそっかしいものですから、そんな言いつけもすっかり忘れて、いえ、頭の片隅には覚えていたのかもしれません。けれど咎めるような村の者はみんな村長のお家で集会に参加しておりました。ですから私はひとりで山に分け入って行きました。目当ての薬草は山道の入口に生えているものでしたから、そう危険な目に遭うものでもないとたかを括っておりました。
果たしてそれは、愚行というものでございました。薬草を摘んでさあ帰ろうといった時に、山道の入口に魔物は現れました。ええ、はい。丘々人でございます。棍棒を振り上げ、此方へ近づいてくる仮面のなんと恐ろしいこと。私は慌てて踵を返し、あろうことか山の奥へ入り込んで行きました。とても、とても恐ろしかったものですから。口酸っぱく言い聞かせられた危険よりも、そのとき目の前に迫っていた危険の方が、よっぽど恐ろしかったのでございます。私は山の奥へ奥へ、右も左も分からぬままに入り込んで行きました。無我夢中、という言葉が相応しいかと思うほどでございました。
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作者名:鳴草 | 作成日時:2022年5月6日 1時