今夜君が欲しい【前編】

30 K ページ30

指先で俺の頬を撫でた後、俺を優しく奥へと押しやり、オッサンは出入り口の鍵をカチャリと開けた。


それを横目で見ながら、鍵を閉めず個室のドアの裏へと自分は隠れた。


耳を澄ませる。


「藤ヶ谷、悪かったな。誤ってこっちまで締めてしまったようだ。」
「…部長、いえ。私こそ取り乱した所をお見せ致しまして、申し訳ございません」
「いや、では、先に私は戻ってるから」
「失礼致しました」



オッサンの落ち着いた冷静な声と、藤ヶ谷の焦ったような声の会話が聞こえてくる。



オッサンの先に戻っていく足音が微かに聴こえた。
そして、ドアを閉め、カチャリと鍵を回す音も。


先程の声とは裏腹に、足音は落ち着いている。
小便をしたいとか、そう言う焦りはデマカセだったのか。


個室を確認しているパタンパタンとドアの開閉の音。ペタンペタンとスリッパが地面に吸い付く音。
靴を履かず、備え付けのスリッパで此処まで来たんだろう。


可愛いよ、藤ヶ谷。



乱れたシャツを直す時間はあった。
ボタンを留める時間はあった。
でも、留めなかった。


敢えて、隠すように首元のシャツをぎゅっと握りしめた。


最後のドアを確認した藤ヶ谷と、瞳が合う。
藤ヶ谷は驚きからか、目を見開き、口も少し開いていた。



「ごめん、邪魔した？」


そして束の間、振ってきた言葉は冷たく藤ヶ谷の視線は凍てついていた。
愛人だと思われてる。無理矢理だと思わせるには材料が少なすぎる。
でも、こんなのは想定済み。



「…」



無言を決め込め、俯き、瞼を閉じた。
涙よ、垂れよ。



「…北山、泣いてるの？」
「…っ、泣いてなんかっ、」



求めていた藤ヶ谷の声が頭上から降ってきた。
それに顔を上げると、俺を覗き込んでくる切れ長の瞳は濃い茶色で、何だか吸い込まれてしまいそうになる。



「泣いてんじゃんっ。怖かったよな、変な事言ってごめん、」
「…別にっ、」


強がる。
藤ヶ谷から、視線をそらす。



両目尻から流れる涙を藤ヶ谷は親指で拭いながら、俺のシャツを握りしめてる手を引き、体勢を崩した俺の身体を藤ヶ谷の身体が包み込んだ。



「もう、大丈夫だから」



正義感が強い真面目な男は損するぜ、藤ヶ谷。
こうやって悪い奴にすぐ騙される。



ただ藤ヶ谷にとっては、赤ん坊をあやす様に、友達を元気づける様に、後輩を安心させる様な感覚なんだと思う。



彼の瞳を見れば分かる。
濃い茶色の瞳は艶やかではない。


色を帯びていない。

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