硬 ページ7
.
去り際、相葉は、彼が悪いわけでもないのに、申し訳なさそうに眉を下げ、「先ほどはご無礼を…、誠に申し訳ございません」と頭を下げた。
大野は、彼の口元が笑みで満たされないことを、非常に残念に思った。
.
「内線で【19】番につなげていただけたら…日中は、わたくしが参ります。夜間は別の者が参りますので、何かあればご連絡くださいね」
それを最後に、パタンと木製のドアが閉まる。
いち、に、さん、し…と、8つまで数えたら、遠ざかっていく足音が、聴こえなくなった。
閉まったクロゼットの扉に凭れて、ずるずるとそのまましゃがみ込む。
別にそうしたかったわけではない。立っていられなくなったためである。
(…肩に手が)
淡紫の浴衣は、うっすらと、森の香りがした。
みぞおちの辺りから、ぶるぶると細かく身体が震えていた。
(……怖かった…)
声の出ない喉に、ぐっと力を入れる。
やはり自分は、気を病んでいるのかもしれない、と大野は思った。
自分の知らないところで、気分が病に侵されているのかもしれなかった。
でないと、あのような好ましい笑みを持つ人を乱暴に突飛ばす、その説明がつかない。
怖かった、怖かったと、唱えるように思った。振り払えない怖さだった。
浴衣を羽織っただけの身体が、冷えてきていた。
それでも震えたまま、動き出せなかったので、優しい香りのするその浴衣の裾を噛んで、抱えた膝に顔を埋める。
それで少しは落ち着いた。
赤子がおしゃぶりを口に入れられて、ふっと泣き止むときと、おなじようなことをしているような気がした。
.
強張っていた身体が、しだいに静寂に慣れてゆき、自然に立ち上がれるようになったころ
縁側は夕日で、茜色に染まっていた。
浴衣は着られないので、また私服を身につけた。
忍び込むように、差した夕の色。
縁側の木目に沿って、伸びてきていた。オレンジ、と表現するのは憚られた。かたかなを、寄せ付けない風情がある。
大野は、座布団に腰を下ろし、机に頬杖をついて、縁側の様子を眺めた。
自分は城崎に来ている、と思った。
遠いところに来た。
それは、都会の喧騒から、ひとりだけ逃げてきたような、甘く退屈な感情だった。
『仕事のことは、なんにも考えなくていいから』
許された逃亡の時間が、急に、毛布のように優しく感じられて
頬とこめかみを、コトリと机に預けた、その後
大野は、しずかに寝息を立てて眠った。
466人がお気に入り
この作品を見ている人にオススメ
感想を書こう!(携帯番号など、個人情報等の書き込みを行った場合は法律により処罰の対象になります)
きんにく(プロフ) - 律さん» 律さん!こちらにも来ていただいて本当に幸せです〜ありがとうございます(泣)ご期待に添えるようなお話が書けたらなと思います! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - はるさん» はるさんはじめまして!お越しいただき誠にありがとうございます。そんなふうに言ってもらえて幸せです♪がんばります! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
律(プロフ) - やっぱりきんにくさんの小説が大好きです!癒しです!続き楽しみにしてます! (2021年1月6日 19時) (レス) id: 820f2de8f4 (このIDを非表示/違反報告)
はる(プロフ) - きんにくさん、初めまして。素敵なお話ありがとうございます。これからも楽しみにしています。 (2021年1月6日 11時) (レス) id: 6cd0f843d6 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - satominさん» satominさんありがとうございます♪毎度毎度、恐縮でございます。おおお…私が読んでる本は暗くて長くて素敵な本です(笑)その人たちみたいに書けたらなあと思いながらなかなか…な日々です(笑)嬉しいことを聞いてくださってありがとうございました♪ (2020年12月28日 23時) (レス) id: 3c003d42b5 (このIDを非表示/違反報告)
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:きんにく | 作成日時:2020年10月19日 16時