雑 ページ32
.
老人は、古びたラジオみたいに、がさがさと、とめどなく喋った。
.
「ここの湯がいちばん温いねんね、ぬるい。わしちょうど良い。すぅぐ逆上せるからね」
ぽくぽくぽく、と口を開け閉めして声を出している。歯が無いのに、「ち」とか「ちょ」とかを、難なく発音していることに、大野は感心した。
初対面でお互いに裸であったのに、ちっとも警戒心を抱かなかった。
大野と向かい合って湯に浸かった老人は、距離をぐっと詰めてきた。ほとんど顔の真ん前で、なかなかのボリュームで話されたけれど、大野はそれを不快には思わなかった。
初対面でお互いに裸であるから、かもしれなかった。
服は警戒と羞恥のあらわれなのかも、と、そういうことも考えた。
「雨や雨やーてね、引きこもるでしょ。それあかんのですわ、城崎いうんはねえ、昔からね、雨が降って濡れてね、うそみたいにキレイなるんですわ」
大野はその声を真剣に聞いた。
湯気で頬が湿っている。ふふ、と緩めたら、櫻井や相葉のようにはいかないかもしれないけれど、割と柔らかに笑えたような気がした。
「柳も濡れて、道路も濡れてねえ……夜やったら灯りも、なんや濡れとるような感じに光りよるんですわ」
雨の城崎。
そういえば、自分が来たときは雨上がりだった。すんと濡れた、緑の香りがしていた。
雨が降るのも、いいかもしれないと思った。
声が出せないから、共感したという証に、老人にニコリと笑ってみせたけれど、老人はごくりと唾を飲みこんだだけで、また話し始める。
「元嫁がね、あ、もう5年前に逝ってもうてるんやけどね、雨の日に、よー行きましたわ、二人で。銭湯やからどうせ分かれて湯に浸かるんやけどね、あれがね、言うんですわ、『銭湯行くときが、一番気分良いです』ってねえ…、わしと離れとるときが良いゆうて!笑ろてまうわぁ」
湯けむりで、もくもくと湿っているのに、老人の声がいつまでたっても潤わず、掠れている。
しわの入った声は、笑うと、豊かに掠れて音をなくした。何十年も生きてきた、喉だった。
それが愛おしいのと、頬が柔くなった感覚が嬉しいのとで、大野はにこにこと、耳を傾けていたのだけれど
「……んで、もうわし、目ぇ見えへんくなってもうてるんやけど、風呂だけはのろのろと入りますねんね」
長い長いおしゃべりが終わった、そのくくり文句で
自分のようやくの笑顔が、ひとつも老人に届かなかったことを知った。
.
466人がお気に入り
この作品を見ている人にオススメ
感想を書こう!(携帯番号など、個人情報等の書き込みを行った場合は法律により処罰の対象になります)
きんにく(プロフ) - 律さん» 律さん!こちらにも来ていただいて本当に幸せです〜ありがとうございます(泣)ご期待に添えるようなお話が書けたらなと思います! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - はるさん» はるさんはじめまして!お越しいただき誠にありがとうございます。そんなふうに言ってもらえて幸せです♪がんばります! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
律(プロフ) - やっぱりきんにくさんの小説が大好きです!癒しです!続き楽しみにしてます! (2021年1月6日 19時) (レス) id: 820f2de8f4 (このIDを非表示/違反報告)
はる(プロフ) - きんにくさん、初めまして。素敵なお話ありがとうございます。これからも楽しみにしています。 (2021年1月6日 11時) (レス) id: 6cd0f843d6 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - satominさん» satominさんありがとうございます♪毎度毎度、恐縮でございます。おおお…私が読んでる本は暗くて長くて素敵な本です(笑)その人たちみたいに書けたらなあと思いながらなかなか…な日々です(笑)嬉しいことを聞いてくださってありがとうございました♪ (2020年12月28日 23時) (レス) id: 3c003d42b5 (このIDを非表示/違反報告)
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:きんにく | 作成日時:2020年10月19日 16時