桜、蛍、楓、雪(2)

環状の感情(1) ページ30

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朝起きたら自転車のサドルが無かった

えっ？そんな事ある？

二度見してもサドルが生えてくる筈もなく

辺りを見回しても落ちている訳もない

よりによって何でサドル？

疑問符で埋まる頭の中を

溜息一つでクリアにする

しょうがない

別のルートで行くしかない

これが路面電車で通うきっかけ

そう……最初はただの非常手段だった

・

部活終わりの疲れた身体

申し訳程度の屋根の下

僕は路面電車を待っている

「まだ自転車 直してないのかよ」

「電車で帰んの、だるくない？」

仲間たちの声に曖昧に返事して

僕は鞄を肩に掛け直して手を振った

みんな、いろいろと忙しいから

時間優先で自転車や地下鉄を利用して

それぞれ帰路へ着く

そりゃあ自転車で通った方が早いし楽

とっくの昔にサドルは付け直したけど

半ば意地になって利用するのには訳がある

……ほら、来た

少し間を開けて並ぶ同じ制服

鞄から文庫本を取り出してページを捲る音

スマホじゃないのが君らしい

僕も真似して文庫本を出してみる

傍らの君を気にしながらだから

内容なんて全く入って来ないけど

君が奏でる密やかな音は

僕の内側の奥の深部に響いて留まるから

スマホにするのは勿体無くて

勝手に対応する様に

ページを捲り続けていた

やがて道路の真ん中を独占して

ゆっくりとやって来る緑の電車

新型は流線的で近未来行き

ラッピング車は彩り華やかで現在進行形

だけど僕は旧型車両の褪せた緑がいい

それは君も同じみたいで

口角が緩く上がるのが

瞳の端っこからでも解る

車両右側の長椅子の左端

いつも君はそこに座る

隣に座る勇気のない僕は

君をチラ見する位置に

さりげなく移動するのが精一杯

文庫本を読んでいるか

もしくは窓の外を眺めているか

その時々で違うけど

居場所を指定された様に

君はいつもそこに居て

僕はそんな君にアピールしようと

反対側の少し離れていた位置に居る

そんな状況がもう3カ月

何で君と仲良くなりたいのか

そんな理由さえ、もう忘れてしまった

だからこれは……意味のない意地

・

行き交う自動車と並走しながら

緩やかにカーブを曲がる

もうすぐ僕が降りる停留場

君が降りるのはもう少し先

結局、今日も何も進展がなかった

がっかりする表情を隠してホームに降りれば

君と一瞬目が合う

少しは君も僕を気になっている？

聞き返す間も無く

路面電車の影だけが

余韻を残して道に長く伸びていた


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