やさしい食卓三。【SS】 (ページ9)

今日:2 hit、昨日:16 hit、合計:132,894 hit

六十九。一人じゃないページ9

.

その突然の出来事に、身動き出来ず固まってしまう

.

『…俺、Aさんの手が、すげー好き』

『努力して来た人の手、してる』

そう言う彼は、私の手から視線を外す事無く言葉を続ける

『…ねえ』

『やっぱり初デートで伝えるのは、良くないのかな？』

.

どうしよう

彼の言わんとする事が、手に取るように分かり始める

…私の、思い過ごしでなければ

.

『…でも、もし今じゃないにしても』

『この気持ちが変わる事は、ないと思うから』

…ダメだ、怖い

そう思い、思わず彼の手から自分の右手を抜き取って

人気の無いマンションのエントランスの壁に向いて、彼に背中を向けてしまう

.

もう、何年も男性と付き合った事なんてない

年甲斐にも無くウブな気持ちに触れられるのは、少し怖い

況してや櫻井さんはお客様で…なんて

今更になって言い訳を並べて、怖気付く。

.

そんな風にしていると

段々と彼の影が私の影に近づいて来るのが、地面を見つめる自分の目から伝わってくる

『…Aさん。こっち、向いて？』

…どうしよう

訳の分からない涙がまた、溢れてくる

私って、こんなに泣き虫だったっけ

そんな私に構う事無く、彼はどんどん距離を縮めて行って

とうとう彼の左手が

私の顔の横を掠めてエントランスの壁に付き、壁と櫻井さんの身体に挟まれる形になる。

.

『…A』

初めて彼に呼び捨てにされた私の名前が、彼に囁かれた耳元に甘く響く

『こっち、向いて』

…ダメ

こんなに泣いてばかりでは、呆れられてしまう

『…顔、見たい』

そう言う彼は

とうとう後ろから私に両腕を回して、その胸に私を閉じ込めて

右横から私の顔を覗き込んで、さっき私の手にそうしたように、右頬に優しくキスをする

.

『もう、一人で頑張らなくて良いんだよ』

“翔さん、すげー良いオトコでしょ。泣けるくらい”

“Aさんは、一人で充分頑張って来たと思うよ”

“そろそろ、誰かに寄り掛かっても良いと思う”

.

『ねえ、A…』

.

尚もまだ、甘く囁かれる彼の呼びかけに

ついに我慢出来なくなった私は

勢い良く彼の正面に向き直り

彼の首に両腕を回して、彼を自分の身体に引き寄せた______