それでもいいんだよ(終) ページ5
何にも覚えていないはずなのに、今だって頭の痛みが完全に取れたわけではないだろうに、それでも。
俺を気遣って気丈に振舞っている彼女が愛おしい。ありがとうと微笑む顔の、いったいどこが以前と違うというのか。
それに、「失ってしまったのなら、また新たに思い出を作り上げていけばいい」
「A」のことが好きだ。以前も、今も、俺は「A」の人格が好きだ。
…彼女は記憶をなくしている、その上犯人だって未だ捕まっていない。
―――今度こそ、Aを守らなくては。己は彼女を支えていくべきだ。
だって―――俺はAの恋人なのだから。
…俯く己を心配そうに見てくる彼女を、そっと抱きしめた。
腕の中の柔い温もりを確かめながら、心の中で密かに、Aをこれから一生守っていこうと決意した。
その後、彼の提案によって二人は一緒に住むこととなった。あの日の後から、スマイルはAを一人にすることに強い拒絶を示すようになり、彼女は家に軽く軟禁状態にされている。
ただ、なにも出かけられないわけではない。しかし、どこへ行くにも必ず彼がついて回るようになった。
さらに、もとより優秀であった彼は仕事を自宅勤務可能のものに変え、今現在四六時中を彼女と共に過ごしている。
さて、何も知らない彼女は、彼が仕事を自宅勤務に変えたことも、以前のお互いの生活がどうだったかすらも覚えてはいない。
―――そうして、彼の用意した優しい籠の中で一生、生きていくのだ。
―――…ある日の朝…―――
「スマイルー、お出かけしようよー…。」
―――先程からカタカタとキーボードを打っている彼に、私は外出を強請ってみた。
「そうだな…今週の土曜日にでも行くか。」
―――彼は画面から私の方へと視線を向けて、少し考えるようなそぶりをした後でそう言った。
その返事に私の頬は自然と緩む。
「あのね、今隣町のパン屋さんが人気でね、とっても美味しいんだって!」
―――そう、テレビでやってたあのパン屋さん、と付け加えることも忘れない。
「分かった。」
―――そんなはしゃいでいる私を見てか、彼も面白そうに笑ってそう言った。
―――彼と二人っきりじゃないと何処にも行けないなんて、もしかしたら世間ではおかしいことなのかもしれない。
でも、私はもうそれでもいいのだ。
彼とずっと一緒に幸せに暮らせれば、それでいいのだ。
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作者名:Entero-spiro | 作成日時:2019年2月13日 14時