95 つながる糸 ページ45
「俺は、さ。楽しかった。Aと演奏するの。ピアノとバイオリンの音色が重なるあの瞬間が、ただ嬉しかったんだ」
誰に何を指図されるでもなく、自由に音を奏でていた時間。
それは充実したものであったと、五年前の私も確かに感じていた。劣等感が生まれてからはその楽しかった日々も黒く上塗りされてしまったけれど。
「だから、Aがもう家に来ないと理解した時は大泣きしたよ。自分のピアノが拙いせいで見捨てられたんだってな。でも、そうか。違ったんだな」
そう言ったきり神童は黙る。どう言葉を紡いでいいかわからないようだった。
「ごめん」
私は蚊の鳴くような声で呟く。
今までに神童が……ただの一度でも私の演奏を貶したことがあっただろうか？
それなのに私は第三者の大人たちの批評に打ちひしがれ、弓を置いてしまった。音楽から、神童から背を向けてしまったのだ。
失った五年間は、もう戻らない。
「謝らないでくれ。過ぎたことじゃないか」
「でも」
「……よし。じゃあ、こうしよう」
目の前に神童の長い小指が差し出された。
「これからは、自分の演奏を悪く言わない。卑下しない。お互いに約束しよう」
──『中学生になっても高校生になっても一緒に弾いたりしたいね』
目の前の神童が、五年前の神童の姿と重なった。
震える手で小指を絡める。また視界が滲んでいく。
「……いいのかな」
「ん？」
「また一緒に弾きたいって、言ってもいいのかな」
許されるだろうか。あの穏やかな一時をもう一度望んでも。
もう意地を張らないから。もう逃げたりしないから。
神童は──笑った。晴れ晴れとしていて暖かく、屈託のない微笑みだった。
「その言葉を、ずっと待ってたんだ」
涙が一粒、瞬きと一緒にはじき出された。ひとつ、またひとつ。止めなければと思うほど、とめどなく流れてくる。
絡めた小指に縋り付くようにして泣いた。それまでのくすんだ感情が一気に洗い流されていく気がした。
丸まった私の背中に、神童が優しくもう片方の手を置いてくれる。
その手から伝わる温かさを、私は忘れないだろう。
＊
「ね、中学生になっても高校生になっても一緒に弾いたりしたいね」
「うん、いいよ──じゃあ指切り」
「えへへ……指切りげーんまん、嘘ついたら針千本のーます……」
「指切った」
「約束だよ、Aさん」
「うん、約束」
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 69人がお気に入り
お気に入り作者に追加
この作品を見ている人にオススメ
この作品を見ている人にオススメ
「原作沿い」関連の作品
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：キメラ | 作成日時：2022年2月15日 9時
