鯨の脂肪 ページ13
息継ぎのように、日芽は紙から顔を上げた。それを見計らっていたかのように、史が声をかけた。
「鯨は見たことある？」
「クジラ？ 死体なら」
「死体を？」
日芽の返答に、史は目を丸くした。もうほとんど覚えてませんけど、と前置きをして日芽は話す。遠い日の視界を手繰り寄せようと、視線が泳ぐ。
「すごく大きいから、陸から見える位置になんてほとんど来ません。かなり沖の方まで出んと……で、私が海の近くにいたのなんか教育場に入る前までじゃけえ、生きとるところは見たことないですね。子供は船には乗せてもらえんので」
「なのに死体は浜に流れ着くの？」
きょとんとした様子で聞く史は、先ほどまでの人を食ったような態度とは打って変わった様子だった。子供のように目を丸くする彼を見る。あ、リブレリーアにとっては、あらゆる生物は「生きている」状態が当たり前なのか、と日芽は思った。けれど、自分もつい先日まではそうだったと思い出す。「別れ」も「死」も、直面するまでは輪郭があるだけでしかない。なのに輪郭すら知らなくても、それらは急に襲い来る。
「海流とかで、じゃないですか？ それこそ本の方が詳しいはず」
それもそうか、と史は手元の紙へ何かをメモした。ついでに、と付け足すように聴く。
「その流れ着いた死体はどうするの？ 微生物が分解するまで放っておく？」
「まさか。そんなん臭くて生活できんくなりますよ。解体するんです」
それだけははっきりと言えた。遠い日に見たクジラの死体は朧気でも、「臭い」という記憶と、周囲の大人から聞かされたことはあまりに印象的すぎて鮮明に覚えていたのだった。
「解体するんです。本当かどうかは知らんけど――クジラの死体って、放っとくと爆発するんですって」
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