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翌日の午後。
東京に着いた瞬間から、心のどこかが落ち着かないままで。
帰りの荷物をまとめながらも、
頭の中にはずっとAのことばかり浮かんでいた。
ライブが終わって一晩経つのに、
映画を見るから電話は明日と言っていたこと、
結局昨日もできなかったことを思い出すと、
胸の奥がきゅっと痛んだ。
本当にただ映画を観ていただけ…?
それとも、何か隠してる…?
答えの出ない問いが頭を巡って、
ずっと胸のどこかに引っかかっていた。
家へと向かう車の中。
外の景色が夕方の光に染まり始めていて、
いつも通りの帰り道のはずなのに、今日は景色の色さえどこか薄く見えた。
ようやく玄関の前に立つと、
なぜか少しだけ息を止めてしまう。
ドアノブに触れた手が、わずかに汗ばんでいた。
“どうか元気でいて”という願いが溢れて。
いつも通りの日常がそこに広がっていることを、信じたくて。
「ただいま…」
鍵を回してドアを開けると、
『…紫耀!』
ぱっと明るい声が迎えてくれた。
一瞬、胸がほどけるように楽になった。
Aが笑っている。
ちゃんと俺を見て、まっすぐ笑ってくれている。
その顔を見るだけで、
疲れなんて全部吹き飛ぶくらい、安心した。
「A、ただいま!」
自然と笑っていた。
帰ってこれた、っていう喜びよりも、
Aがそこに立っていてくれるという安心が大きかった。
だけど…。
玄関の光の下に踏み込んだ瞬間。
なにかが引っかかった。
笑っているはずのAの表情の奥に、
微かに影のようなものが見えた気がして。
なんだろう…。
Aの息が少し浅い?
声のトーンがほんの少しだけ、かすれていた?
それに気づいた瞬間、
心臓がひやっと冷たくなった。
もしかして…。
『ちょうど良かった!今ね、お茶入れようと思って…』
そう言ってくるりと踵を返すA。
その動きも、普段よりゆっくりで。
一歩一歩が慎重で、
体を庇って歩いているようにも見える。
やっぱり…。
胸の奥に違和感が広がる。
けど、彼女は笑っているから。
“待ってたよ”っていう笑顔で。
会いたかった。
触れたかった。
安心したかった。
その気持ちが強すぎて、
喉の奥で言葉がひとつ飲み込まれた。
「A…?」
名前を呼ぶと、
彼女はぱっと振り返って、まるでいつも通りを装う。
でも笑う顔の端が少し揺れていて。
その揺れを見逃せるほど、
俺は鈍くない。
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作者名:Pino | 作成日時:2025年10月30日 0時


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