逢瀬と籠城／羽風薫 ページ31
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そこには" 夜 "がふたつあった。
もうひとつの夜は水面に揺らめいて、星々とはまた違う輝きを波打つように灯している。
そこには" 人影 "もふたつあった。
一人は男で、一人は女である。つかず離れずの距離を測るように歩幅を合わせているようにも見え、その姿は随分とぎこちなかった。
男が口を開いた。俯いていた顔を真っ直ぐに上げ、ぴったりと張り付いた上唇と下唇を重たげに離して、こう言った。
「ねぇ、」
「……なぁに」
「…俺さ、Aさんのことが好きだったよ」
「……そっかぁ」
ぐ、と拳に力を込めた男の声は、そんな曖昧な言葉で濁された。A、と呼ばれた女は緩やかに笑った。男の先を行き、誰にも見られないように眉を下げて、笑った。
揺らめく水面は随分と先まで続いており、その広さは計り知れない。ぎこちない距離は、また随分と離されたようにも見えた。
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Aは薫の初恋の女だ。年の差は五。
草木を愛し、人にやさしく動物にやさしく、困った人にはその柔らかな手を差し伸べ、本当に困った人には厳しく諭した。薫の出会った十五歳の彼女は、人望の厚い、出来た人間だった。顔も整っており、身体は健康的にスラリと細く、動作は嫋やか。彼女はその清らかな姿で老若男女に好かれ、愛される。
美しい人だと、幼い薫でさえ思った。
彼女と出会って数年経ったある日、独白するように、たった一人だけの世界で一度だけ息を吐くように、その声を震わせた日があった。それは誰にも聞かせるつもりなんかなかったはずの彼女の弱音だった。
Aがなぜこんなにも悲しそうな声を出しているのか、なぜ自分と目を合わせてくれないのか、それさえも、未来を生きる薫には分からなかった。
「Aさん？」
「ううん、ごめんね。なんでもないの。」
「…そう」
「うん、そう。そうだよ、なんでもない」
薫は、そう言ったあと「靴紐が解けた」としゃがみ込んだAを忘れることが出来なかった。
///
それから、瞬きと共に時間が進んでいった。
誰も知らない時間を、Aは過ごしていた。
「私の心は、もうずっと遠くにあるの」
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彼女はそこを、" 籠城 "と呼んだ。
誰にも彼にも近付いて貰えない、自分一人しかいない場所。Aは寂しい反面、安堵するような爽やかで心地良い感覚にあてられていた。たまに甘く馨しい香りがどこからともなく香ってきたり、夜闇の狭間から誰かがこちらを覗いているような気もしたりした。
それでも、彼女はまだ、幸せだった。
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作者名：ねむい | 作者ホームページ：
作成日時：2019年8月26日 19時
